約10日ぶりの書き込みです~
先日、JR大阪駅のホームに降りて階段を下り、改札に向かう途中、遠目に一人の50~60歳くらいの男性をみた。
その方は、奇妙な動きをしていた。
なんと、構内にある柱の周りをぐるぐると移動しているのだ。
時間は通勤時間帯なので、改札とホームまでを行き来する人で構内はいっぱい。
人にあたりながら、移動しているその方は、遠目には奇妙に見えた。
ところが、近寄ってみると謎がとけた。
目の不自由な方だった。
盲人者用の杖を持ち、必死で盲人案内用のプレートを探すために地面をさぐっていたのだ。
自分は、その方の横を通りすがり、そのまま改札に向かおうとしたのだけど、
気になり、ふと振り返ってみた。
やはり、大勢の人がホームから改札に人が流れている中、その方は流れに巻き込まれながら横断していた。どうも目的地に着く様子もないので、声をかけてみた。
『どちらに行かれますか? ホームですか?改札ですか?』
『ああ、環状線に乗りたいんですわ』
『わかりました』
そういって、その方の手首を軽く持ちながら、ホームに向かう階段まで同伴していった。
その途中、印象的な言葉を聞いた。
『ほんま~なんやこの駅は! 改装してまったく道がわからん!
役人共がでたらめな安モンの工事しやがって…!』
その方は憤っていた。
自分はその方を同伴したあと、駅を出るまでの道をなんとなく地面を見ながら歩いた。
案内プレートが少なすぎる…。
構内は改装中で、道幅が狭くなったり、入り組んだりと、盲人者でなくとも改装始まったときは少し通路がわかりずらかった。盲人の方ならなおさらわかりにくい。
その上、案内プレートが少なかったり、階段には案内プレートがあっても、通路には案内プレートがない。
憤るのは仕方がないと思った。
昨年、【障害者自立支援法案】が国会で可決され、新聞やテレビで取り上げられた。
この法案の名前は障害者にとって、良さそうに聞こえる名前だが、実態は障害者の現状とはかけ離れた改悪法案だと非難されている。
内容が、介護費用の実費負担など金銭面が中心だからである。
国の建前上は、『障害者を【保護】するのでなく、【支援】しなくてはならない。そのためには、保護をするのではなく、その人が一人立ちして自立を支援することが大切である。就労もその一つであり、そうすることにより障害者の生きがいが生まれる』といったものだろう。
ふと、五体不満足の乙武広匡さんを思い出した。乙武さん薄ら覚えだけど下記のような趣旨を著書に記していた。
『障害者』が『障害者』なのは、障害者のインフラが整っていないからだ。
リフト付バスや、ノンステップバス、エレベータなどの、バリアフリーをすれば、
『障害者』は『障害者』で無くなる。
自分は、障害者が自立して暮らせるような社会を作ることは大切だと思う。
【保護】の色合いが強いと、【自立】の機会を失ってしまうことにもなりかねない。
でも、そのためにはまず国がインフラから整備しなければならない。
インフラ整備した上で障害者に自立を求めるなら、理解できるけど、
ただ財政負担を軽くするのが目的だけで法案を強行採決したかのような、
国のやり方には理解に苦しい。
本当に障害者の自立を促すなら、目の見えない人、耳の聞こえない人、手足の不自由な人、話せない人の立場に立った街づくりをすることからはじめなくてはならない。
ぐるぐる柱の周りを歩かせてしまうような公共施設がいたるところに存在している状況を解決する法整備も支出もせずに、介護支出削減が先行するような国は矛盾しているよな~。
自立支援といいつつ、本当の正体は、自立支援の視点に立って法整備していない、建前だけの支出削減のための法整備に頭が来る。
バスにも乗れず、電車に乗るのも困難、公共施設なのに障害者に対する配慮も欠けている。
さらには法案によって、介護を受けるのも負担が増加。
バカバカしいなぁ…
自分は、大阪駅で出会った盲人の方の言葉を聞いて、改めてそう実感した。
ところで、日本では障害者を指す言葉として、
『ハンディキャップ(handicap)』があるけど、
最近欧米では
『チャレンジド(challenged)』という言葉も使わている。
「チャレンジド」とは、神さまから与えられた試練、挑戦課題、チャンスを与えられた人 という意味だそうである。
障害をマイナスに考えるのではなく、障害を持つがゆえに体験する事柄を自分のため、社会のために前向きに生かそうという意味合いがある。
聖書には、このような言葉がある。
『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。
むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』
聖書から見たとき、障害者もそうでない人も区別して捉えられない。
試練は、すべての人に与えられている。よって、『障害』も試練の中の一つに過ぎない。
苦しい試練が与えられるということは、その人がそれにさえ耐えうる力が与えられている証拠である。
その脱出の道も備えられている。神さまからその人だけに与えられた一つの機会である。
それに挑戦することによって、神さまのすばらしさがより理解できる。
そのような考え方が『チャレンジド』の言葉に表れている。
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